BEST DRESSER AWARDS 50th ANNIVERSARY

MFU日本メンズファッション協会が主催する「ベストドレッサー賞」が、1972年に第1回が開催されてから50回という記念すべき発表・授賞式をむかえた。各種アンケートと選考委員会で選ばれた、その時代を反映したベストドレッサーは50回で318名となった。景気の動向に左右されることなく、自然大災害にも中断することなく、コロナ禍においても万全の対策で開催し、50年間続けてきた歴史こそ、その授賞者の顔ぶれとともに、このアワードの権威と期待と人気の源であろう。

大人の男のファッションの黎明
MFU創立の仕掛け人である石津謙介が高度成長期に発表した“VAN”は日本の若者に男のファッションを意識させ、一大ブームを巻き起こした。それは、単なる服飾の世界にとどまらず、そのライフスタイルまでをも包み込む文化を創出した。その後、多くの若者向けメンズブランドが発表された。
1958(昭和33)年MFUの設立準備会ともいえる「ファッション十三人会」が設立された。舞踊家の伊藤道朗、演出家で服飾評論家の青江耿介、江戸っ子ファッションデザイナー村田金兵衛、人間魚雷「回転」の特攻隊員の生き残りであったデザイナーの立亀長三、そして石津謙介らで構成され、新しい時代の感性創造について議論を重ねていった。そして、1960(昭和35)年ジャパン・メンズ・ファッションユニオンが設立され、毎年MFUファッションテーマを発表していった。『TPO』や『ピーコック革命』などといった言葉はここから生み出された。ファッション界で日常よく使われる、コーディネート(組み合わせ)、ポリシー(考え方)、コンセプト(概念、アイデア)、コンストラクション(構成)といった言葉もこの時代に出てきたものである。
そしてそのファッションテーマに最も適した人を選ぼうということになり、「テーマに最もふさわしい人」、「お洒落の真髄を極めた人」、「抜群に恰好いい人」、「男性的魅力の極致にある人」、「人格、教養、識見、ともに優れている人」、「明るい話題を提供している人」等を検討しているうちに「ベストドレッサー賞」を発表することになった。
メンズ・アパレル産業界にも、若者のファッションから真に大人のファッション
を指向するメーカーが名乗りをはじめた。1971年に発売されたメンズトータルの国産大型ブランド“'DURBAN”はその代表であろう。当初「大卒、35歳、中間管理職」をメインターゲットに定め、それまでフルオーダーが主流であった背広を既製服、パターンオーダーでファッション性を強調し、大人の男のスーツを提案した。因みに、1971年のダーバン・スーツは1着3万円であり、大卒初任給の1か月分の定価であった。大手アパレルのオンワード樫山や三陽商会等も次々にメンズ大型ブランドを発売し、男もファッションに関心が高まり、海外ブランドの日本進出も本格的になり、メンズファッションの成長期へと入っていった。

第1回ベストドレッサー賞
ベストドレッサー賞の発表は、今でこそ、マスコミやMFU会員のアンケートをまとめ、選考委員会で授賞者を決定し、受賞者全員が一堂に会し、多くの関係者に祝福される実行方法が定着したが、初回ということもあり、その船出はとても難航した。
ファッション評論家、デザイナー、テレビ各局のディレクター、新聞各社の記者などそうそうたる顔ぶれで選考会が開かれたが、いずれも一家言ある御仁たちで喧々諤々の審議が行われた結果、授賞者10名という大人数となった。会場は、桜で有名な千鳥ヶ淵にあったフェアモントホテルで、マスコミ30社程度の前での記者発表であった。本人出席も4名という、現在の原則授賞者全員出席に比べれば寂しい授賞式だったが、六本木のクラブで開いた祝賀会での佐治敬三のスピーチが傑作であった。
「ワテ酒屋ですネン。そやからこういう賑々しいノン大好きですワ。日本で初めてのベストドレッサーに選ばれて光栄だス。私がヨウケ(沢山)服持ってるせいでっしゃろか。ホンマにうれしいデスワ」

皇室も総理大臣も
第4回授賞者には、「髭の殿下」で有名な三笠宮寛仁親王が名を連ねた。石津謙介MFU会長が東宮御所に参内して表彰状を渡したが、殿下は「俺のところに今頃ベストド__レッサー賞を持ってくるとは……遅いッ!遅すぎるヨッ!」と一喝された。その時の殿下は“VAN”のスポーツシャツにセーター、コットンパンツに御身を包まれており、VAN本社にも度々行かれており、石津とは昵懇であったからこそのお言葉であった。文人であり昭和天皇の侍従長を長く務めた入江相政も第5回に受賞している。
総理大臣経験者も6名いる。前年に総理大臣を退任し、ベストドレッサー賞受賞の翌年にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作は、その大きな目鼻立ちで「政界の團十郎」と呼ばれ、その目で睨みつけられると誰もが戦慄したというが、ベストドレッサー賞受賞にはとても喜び、相好を崩し、フランクで多弁に感想を語ったという。麻生太郎は1977年第5回に受賞しているが、この時は麻生セメント社長という財界きっての洒落者としてである。橋本龍太郎は大蔵大臣の時の受賞である。そのダンディな身だしなみは、父・隆吾の最期の言葉が橋本のネクタイの曲がりを戒めるものであったところからきているといわれている。細川護熙は、現職の総理大臣としての受賞である。非自民・非共産の連立政権であり、自由民主党と日本社会党の二大政党中心の55年体制の終焉となった。菅直人は、1996年第一次橋本内閣で与党となっていた「新党さきがけ」より厚生大臣として入閣した後の受賞である。薬害エイズ問題では、犠牲者の骨壺に跪いたり、カイワレ大根風評問題では記者会見の場でカイワレサラダをパクついたりのパフォーマンスが記憶に残ったが、東日本大震災時の総理大臣としては精彩を欠いたといえよう。安倍晋三の受賞は内閣官房副長官在任中であり、首相への道を注目されていた時である。そして、在職日数歴代最長となった2回目の総理大臣の時に、2度目のベストドレッサー賞に輝いている。
石原慎太郎は作家と東京都知事で2度受賞し、小池百合子も環境大臣と東京都知事で2度受賞している。彼女が環境大臣の時には、「クールビズ」の提唱者であり、我がMFUの会員であるネクタイ業界が大打撃を受け、コロナ禍では飲食業界には補助金等の施策があったが、MFUの中心企業であるアパレル業界には何ら特例がなく、かつて売り上げ世界一だったアパレル企業の倒産まであったのは皮肉なことである。

時代とともに変化と進化
開始当初は、メンズファッションの協会ということもあり、また、ベストドレッサーというとスーツをピシッと着こなすジェントルマンを想起する時代であったので受賞者も男性ばかりであったが、第4回の木原光知子で初めて女性が選ばれ、1986年には女性部門が設けられたが、2002年には、それも廃止し、男女の区別に拘らなくなった。
職業も、当初は政治家、人気作家、芸能、スポーツなど、マスコミ、特にテレビでよく見る人たちが選ばれていたが、現在では多岐にわたる職業から受賞者が出ていて、2020年受賞のときどのプロeスポーツは20年前には想像すらできない職業である。
受賞者の最年長は、自称106歳児の教育者である曻地三郎や100歳で受賞した日本初の女性報道カメラマン・笹本恒子がいる。
ファッションそのものも、格好よく着こなすという万人が認めるベストドレッサーから、その人となりを表現する個性を重視するようになり、マスコミアンケートでは、スポーツ部門に顕著だが、その年に活躍し話題になった人が多くの票を集めることになった。
最後に2013年受賞の百田尚樹の言葉で締めくくりたい。公式ブックの取材時には「服や持ち物にこだわり、髪形を気にするような奴は気色が悪い。もっとすることがあるやろ」と言っていたのが、授賞式でのスピーチでは「やっぱり男は恰好よくせなあかん。きちっとした恰好したら気も引き締まる」

※受賞当時の役職・肩書とする。順不同、敬称略

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歴代ベストドレッサー賞受賞者一覧

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